source : 2011.04.19 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■支援の裏に「日本待望論」
東日本大震災で日本に支援の手をさしのべた国は数多いが、日本人被災者を自国に移住させることを一方的に考えたのはロシアくらいではないか。北方領土問題で日本との関係を極度に悪化させていたことからすれば、実に奇妙な心理だ。
ロシアでは震災の発生直後から「日本の震災孤児を受け入れるべきだ」とか「日本人を極東・東シベリアに移住させてはどうか」といった議論がラジオやインターネットをにぎわした。
メドべージェフ大統領も3月の国家安全保障会議で「必要であれば、とりわけシベリアや極東の人口が希薄な地域で、隣国の潜在的労働力を利用することも考えなくてはならない」と述べた。「シベリア抑留」の歴史を考えれば不適切な表現だが、これも善意からの発言と受け取られている。
ロシアは今回、迅速な人道支援に乗り出すなど急速な対日接近を見せている。震災支援に乗じ、東シベリアの巨大天然ガス田の開発や、極東-北海道の海底送電ケーブル敷設といった長期的な共同事業まで持ちかけているのは象徴的だ。
ソ連崩壊後のロシアは広大な極東・東シベリアの開発に手を焼き、隣の中国からは「人口浸透」という潜在的脅威を受けている。ロシアの国益は本来、中国と日本がバランスよく国土の発展に貢献してくれることであり、震災後のロシアの動きにはある種の「日本待望論」が垣間見えるのだ。
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旧ソ連の最高指導者として初訪日したゴルバチョフ・ソ連大統領が20年前の4月18日、海部俊樹首相(当時)との首脳会談を受けて日ソ共同声明に署名し、日ソ間に北方領土問題が存在することを公式に認めた。第2部では、ロシアの領土事情やこの間の北方領土返還交渉を取り上げ、今後を展望する。
真っ白な原野と丘陵が果てしなく続くこの地を、地元住民は「島」と呼んできた。モスクワから旅客機で8時間の極東マガダン州。1年の半分以上が「冬」に閉ざされ、奥地では零下50度にも冷え込む。空路と海路しか「大陸」との交通手段がない陸の孤島だ。
ソ連時代には、国内最大のラーゲリ(強制収容所)集積地として知られた。独裁者、スターリンによる政治弾圧の犠牲者や囚人が各地から連行され、金鉱山の開発に当たったのだ。
「1932年から56年に約80万人がマガダンに連行され、20万人が寒さや飢え、病気などで死亡、1万人が銃殺された」と郷土史家のライズマン氏(69)は話す。実際の犠牲者はより多かった可能性もある。
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血塗られた歴史を伝えるものは、州都マガダンにほとんど残っていない。ただ、市中心部で「この目抜き通りも、通り沿いの建物も日本人(抑留者)が造ったものですよ」と住民らが教えてくれた。マガダンには日本人抑留者のうち約4千人が連行され、少なくとも250人がこの地で命を落としたとみられる。
主要交易品だった毛皮を追い求めて東進し、18世紀にはアラスカまで到達したロシア人。だが、マガダン地方の本格的開発が始まったのはスターリン期の1931年と遅かった。
探検隊によって金鉱脈が確認され、スターリンはマガダン開発のための特別直轄組織「ダリストロイ」を創設。ダリストロイは現地の全権を握り、囚人や「政治犯」を大量に投入した。
マガダンに暮らすゴルバチョワさん(84)はウクライナ西部出身だ。女学生だった46年、「人民の敵」との罪状で逮捕され、流刑された。シベリア中部クラスノヤルスクの炭鉱を経て、マガダン郊外の煉瓦工場や錫鉱山で54年まで強制労働を科される。
「食事は水のようなスープにパンのかけらだけ。生きてさえいれば、1日が過ぎていく。それだけでよいと思っていました」とゴルバチョワさんは振り返る。
スターリンが死去した53年以降はダリストロイもラーゲリも廃止され、収容者らは釈放されていく。ただ、強制労働の仕組みがなくなってからも、ソ連はマガダンで露西部や中央部に比べ約2倍という“割り増し給与”を支払い、技術者や労働者を確保していた。
20年前のソ連崩壊は、そんな人工的な版図維持装置を吹き飛ばした。人口は89年の39万人から昨年の15万7千人まで急減し、各地の集落は荒廃している。これは日本の北方領土を含め、極東各地に共通する現象だ。金の採掘量もソ連時代のピークから落ち込み、州民の実質的な平均月収は、ロシア全体の平均を下回る約2万ルーブル(約5万9千円)程度とみられている。
マガダン市内にある北東大学のシロコフ学長(43)は「州内には開発を待つ巨大な金鉱山が9つもあり、一部は近年中に稼働できる。現在の金生産は年間17~18トンだが、潜在的には30トン以上だ」とし、インフラ整備に向けた連邦中央の資金投下に期待する。ただ、ソ連時代のモデルに代わる地域発展の道筋は、まだ見えてこないのが実情だ。
マガダン市内にはマルクスやレーニンの名を冠した通りが残り、市役所前にはダリストロイの総帥だったベルジンの像がどんと構える。ラーゲリを経験した男女6人に「スターリンを評価するか」と尋ねたところ、4人までが「ソ連時代には秩序と安定、平等があった」などと評価した。
人々の心理という面では20年前と何ら変わっていない旧収容所の「島」。日本人が再び発展に「貢献」する時代が来るのだろうか。
(2) 実理を狙った対中譲歩
source : 2011.04.20 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■実利を狙った対中譲歩
大ウスリー島には緑が生い茂り、数百メートル先から見ても豊かな自然が息づいているのが分かった。3月上旬、ロシア極東ハバロフスク近郊。島との間を隔てるアムール川(中国名・黒竜江)は結氷して容易に渡れそうだったが、タクシーの運転手は「島への外国人の立ち入りは禁止されている」と行くのを拒んだ。
川沿いに住む女性(56)が、島の土地の所有権を失ったことを知ったのは2006年の春だった。
「雪が解けた5月、島で営んでいた養蜂場に行こうと思ったら、『そこはもうあなたの土地ではない』と、国境警備隊員に止められた。あたりには中国人がやってきて測量していた」
突然、中国領となった島の西側にロシア人が有していた土地は76区画。数十人がロシア政府を相手取り提訴、この女性を含む大半の地権者が補償を受け取ったが、「精神的苦痛に対する慰謝料まで認められた人は少ない」という。
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中露の国境線は実に4300キロに及ぶ。1999年までにその98%を画定させた両国にとり、最大の係争地として残されていたのが大ウスリー島周辺だった。
しかし露側は2004年以降、対中交渉を本格化させ、大ウスリー島の西部とタラバロフ島を中国側に引き渡すことなどを容認、08年にすべての国境線が画定するに至った。大ウスリー島周辺の係争地約375平方キロをほぼ折半する形での決着だった。
ハバロフスクにある極東人文大学のマズロフ教授は「譲歩したのはロシア側」との見方を示した上で、「04年の胡錦濤国家主席とプーチン大統領(当時)の会談内容はいまも公表されていない。なぜこういう形で国境線が引かれたのか分からない」といぶかる。
中国は当時、石油消費量で日本を凌駕(りょうが)し08年の北京五輪開催に国を挙げて邁進(まいしん)していた。経済大国へと上り詰める隣国との間に未画定の国境があることは、経済協力の取り付けや安全保障の面で得策ではない。ロシア側にそんな思惑があったことは想像に難くない。
アムール川をはさんでロシア極東の対岸にある中国黒竜江省の人口は約3830万人(09年)。ロシア極東は同省の約13倍の広さに約630万人しか住んでいない上、この8年で40万人あまり減った(国勢調査の暫定値)。ロシアが国境画定を急いだ背景には、中国の影響力浸透に歯止めをかける狙いもあっただろう。
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露コメルサント紙(電子版)などによると、中国は自国領となった大ウスリー島西側と、黒竜江省を結ぶ橋を造り始めた。非関税の自由貿易圏のほかホテルやレストランを整備し、ロシアに先行して一大リゾートの建設計画が進む。
ハバロフスクの週刊紙アムール・メリディアンのクレムニョワ編集長は、「国境画定はハバロフスクの経済に恩恵をもたらしていない。地元政府は中国側の開発の速さに危機感を持っているし、住民の対中感情も悪化している」と話す。
ハバロフスク中央市場のキオスク(売店)の店員はロシア人が大半で、アジア系はベトナム人ばかりだった。法改正で中国人の露店での直接売買を制限したためだ。が、市場には中国製品があふれていた。「中国人から買ったものを少し値上げして店に並べている。それでもロシア製より安いから売れるのよ」。靴下や衣料を売るロシア人女性(50)がささやいた。
日露の間には未解決の北方領土問題が横たわる。中国に対しては領土の“折半方式”という譲歩を示し実利を狙ったロシアだが、成果のほどは定かではない。
(3)
source : 2011.04.22 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
2007年6月、北方領土・色丹島の穴澗(あなま)地区。島で唯一の中学校をロシアのラブロフ外相が訪れた。ソ連崩壊後初めてとなるロシア外相の北方領土訪問を祝い、生徒たちが歓迎の歌をうたい始めた。
だが、それはロシア語の歌ではなかった。日本の唱歌「さくらさくら」を、ロシア人の生徒たちが日本語で合唱したのだ。当時、島では日本語ブームで、日本との交流拡大を望むムードが強かったという。
外相を日本の歌で迎えるとは何事か-。現地で物議を醸したのも当然だった。
この中学校の校舎は、1994年の北海道東方沖地震で一度倒壊している。その後、再建が進まなかったが、プーチン政権が2006年に国費を投入。外相が訪れたときは新築されたばかりのピカピカの学校で、外相の訪問自体、「モスクワは島を見捨てない」という政治ショーの意味合いが強かったと言っていい。
こうした思惑とは裏腹に、地元の選んだ歌が「さくらさくら」だった事実は、島と日本のつながりの深さを改めて示す形となった。
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ロシアは外相の訪問を機に、色丹島を含む北方領土への総額約180億ルーブル(約530億円)に上る社会経済発展計画を実行に移す。
道路や発電所などのインフラ整備と水産業発展のための集中投資により、色丹島の商店には物資があふれ、女性はぬかるみのない舗装路をハイヒールで歩くようになった。しかし…。
08年夏、色丹島穴澗の中学校をビザなし渡航で訪れた北海道在住の日本人男性(55)は、ロシア人の学校職員に案内された廊下を見て驚いた。
壁の中に大きな穴。そして、柱には出っ張りがあった。生徒たちが大けがをしかねない。職員はこの男性に「なんとか日本の職人に直してもらえないだろうか」と懇願したという。
熟練設計士の不足とロシア人労働者の能率の悪い働きぶり。「欠陥建築」であることは明らかだった。
北方四島の現状に詳しい別の日本人男性(52)もこう語る。「国後島の新空港では管制塔の屋根が吹き飛んだり、水洗トイレを作ったのに水道管が来ていなかったり。せっかく種をまいても芽が育たないのです」
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昨年11月、メドベージェフ大統領が国後島入りし、旧ソ連・ロシアの国家指導者として初めて北方領土を訪問した。露外交筋は「公共事業の進捗を視察するためだった」と説明する。
そして今年2月、露政府は追加投資を決めるとともに、自前の開発の限界を悟ったかのように、外資の呼び込みに積極的になった。
できれば北方四島に近い北海道の企業の参加を-。伏線は09年秋にあった。根室市を訪れたベールイ駐日露大使が長谷川俊輔市長にこんな提案をしていた。
「われわれは優遇措置を含めた柔軟な対応が可能です。根室の皆さんの積極的な協力を期待します。建設的なアプローチは問題の解決につながるでしょう」
根室市の経済は衰退し、09年度の出稼ぎ率は約22%で道内35市中ワースト1。人口は最盛期の4万6千人から減り続け、昨年、とうとう3万人を割った。
長谷川市長はこの閉塞状況を打破しようと最近、ビザなしで北方四島との経済交流を進める構想を打ち出した。「領土返還につなげるために、日本が四島を経済で実効支配するやり方があるのです」と意気込む。
領土問題未解決のまま今年で66年。目に見えぬ境界で隔てられた日本最北の島々と海峡の街では、東京とモスクワの思惑をよそに、再生の道を懸命に探ろうとしている現実がある。
(4)高揚と失望を招いた「溝」
source : 2011.04.23 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
日本とロシアが、北方領土問題の解決に最も近づいたとされる時期がある。1997年11月、シベリア・クラスノヤルスクでの非公式会談で、当時の橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が「2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」と合意した頃だ。日本の世論は沸いた。
翌98年4月には、静岡・川奈の会談で橋本氏が「非公式提案」をする。北方四島の北側に国境線を引くものの、一定期間は露の施政権を認める趣旨だった。4島の即時返還でなく、潜在的な日本の主権確認を求める柔軟姿勢を示したのだ。
だが、この時期に駐日大使を務めていたパノフ氏(66)は「潜在主権論」について「まじめに検討されもしない、ばかげた考えだ」と一蹴する。
「ロシアは戦勝国として(北方四島を)自国領と考えている。いったん潜在主権を認めれば、日本は『やはりすぐ返せ』と言うかもしれない。欧州の国境が戦争でおびただしく変わってきたことを考えてほしい。日本だけが第二次大戦の結果を受け入れずにいる」
■「経済協力が前提」
北方領土交渉の重い扉が開いたのは、今から20年前の91年4月だった。旧ソ連の国家指導者として初訪日したゴルバチョフ大統領(80)と当時の海部俊樹首相(80)が、3日間の計6回・12時間以上にわたるマラソン会談で「日ソ共同声明」の発表にこぎ着けた。
「4島一括返還だ」と腹を決めていた海部氏は「会談の最後の方はしゃべることがないからね。目を見て『頼む』『ダー(はい)と言ってくれ』と繰り返していたよ」と苦労を振り返る。
海部氏によれば、最終会談で「日本は4島一括返還以外の話はしないよ」と迫ると、ペレストロイカ(改革)に行き詰まっていたゴルバチョフ氏は「大規模な経済協力が前提だ」と日本の資金協力を求めたという。
共同声明では、北方四島を列挙して領土の帰属を含む平和条約締結の問題が話し合われたことを明記。「4島返還」も「資金協力」もない“痛み分け”ではあったが、「領土問題は存在しない」としてきたソ連の主張は公式に修正された。
■アプローチの違い
ソ連崩壊をはさんで93年には、当時のエリツィン大統領と細川護煕首相(73)が「4島の帰属」を「法と正義」の原則で解決するとした「東京宣言」に署名し、交渉に弾みがつくかに見えた。「法と正義」は、当時の外務次官だったロシア屈指の日本専門家、クナーゼ氏(62)が提唱していた概念だ。
だが、そのクナーゼ氏も、クラスノヤルスク会談(97年)を頂点とする日本の高揚を「根拠がない」と感じていた一人だった。領土観や歴史観の隔たりもさることながら、氏は今に至る日露のアプローチの違いに「壁」を見ている。
「4島返還から関係が深まる」と言う日本に対し、ロシアは「まず戦略的パートナーとなり、その中で解決策を見つけよう」と逆の発想をする点だ。
クナーゼ氏は「第二次大戦後の米国は西欧への『マーシャル・プラン』で民主主義陣営のリーダーになった。日本には(90年代の)ロシアに対し、もっと体系的な経済支援をするという方法があった」と話す。むろん、現実には「領土問題が置き去りにされる」との懸念が日本側にブレーキをかけさせたのだった。
エリツィン大統領が国内での政治力を失い、日露が多くの深い溝を抱えた状態のまま、平和条約の締結目標とされた2000年が近づいていた。日本外交に失望の色が濃くなる中、頭をもたげてきたのが「2島先行返還論」である。
(5)「空白の10年」 危機招
source : 2011.04.23 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
「どうして国民にあれほど理解されなかったのか、いまだに分からない」。2001年3月、当時のプーチン大統領(58)と森喜朗首相(73)が首脳会談で合意した「イルクーツク声明」の評価について、外務省欧州局長だった東郷和彦氏(66)は今も悔しさをにじませる。
声明は、平和条約締結後の色丹、歯舞両島の引き渡しを定めた「日ソ共同宣言」(1956年)が交渉の出発点となる「基本的文書だ」と確認。その上で「法と正義」の原則をうたった「東京宣言」(93年)に基づいて4島の帰属問題を解決するとした。
ここには「色丹、歯舞の返還にはロシアも同意している。焦点は残る2島だ」との日本側の考えが反映されている。「色丹、歯舞の返還時期や方法」と「残る2島の帰属」を併せて協議する「2島先行返還論」(同時並行協議)である。
平和条約の締結目標とされた2000年が近づくにつれ、日本外交が失望に陥ったことは前回紹介した。イルクーツク声明には、日露交渉に新たな弾みをつける狙いがあった。
「2島先行論」は、最悪で2島返還、最良で4島返還となる性質を帯びる。東郷氏はしかし、ロシアが「2島」で幕引きを図った場合には協議の凍結を通告、「2島+α」を提示されたら国民に検討を委ねるつもりだったと弁明する。
■「妥協できない」
昨年11月、メドベージェフ露大統領(45)が北方領土に足を踏み入れ、「危機」に瀕(ひん)した領土交渉。パノフ元駐日大使(66)は、これを「小泉純一郎元首相(69)がイルクーツクの交渉プロセスを破壊した結果だ」と断じる。
01年4月就任の小泉氏は4島の帰属を一括協議する立場を表明。「2島先行論」を推した鈴木宗男・元衆院議員(63)=受託収賄罪などで服役中=が失脚し、鈴木氏に近かった東郷氏らが交渉から外された。
一連の動きはロシアで「2島先行論者」の「弾圧」と受け止められた。パノフ氏は「これで日本とは妥協できないことが分かり、以後はいかなる領土交渉も行われない『空白の10年』となった」と話す。
そこへ09年、北方四島を「固有の領土」とした改正北方領土特措法の成立や、当時の麻生太郎首相(70)の北方領土「不法占拠」発言などが重なった-。
■急速な対日接近
ソ連・ロシア研究の泰斗、木村汎・北大名誉教授(74)はこの20年間の日露交渉について、「ロシアが提示したのはせいぜい『2島』か『2島+α』という(日本の反応を見るための)“餌”だ」とし、「政権の実力者、プーチン首相は4島返還を拒否する立場だ。『四島』以外で妥協しなかった日本の対応は正しい」と拙速を戒める。
「東アジアで勢力を増す中国はロシアにとって脅威と映る。資源依存型経済のロシアは日本と仲良くせねばどうしようもなくなる時代が来るのではないか」と木村氏は語る。「ロシアは『日本はついてくる』と甘えている。いったん突き放し、経済協力もしないくらいの姿勢が必要だ」
「2島先行論」をめぐる立場は別にしても、「空白の10年間」で対露外交の足腰が弱まり、外交に重要な「信頼」や「接点」すらも失われていたことは間違いない。だが、東日本大震災の衝撃は日本外交の不作為すらもかき消しつつある。
第2部冒頭で見たように、ロシアは震災支援に乗じて中長期的な資源開発事業を持ちかけるなど、急速な対日接近を見せる。日露関係再構築のボールが日本に投げられた今こそ、領土交渉のシナリオを練り直す好機にほかならない。
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