source : 2011.06.19 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■エリツィン氏の“再評価”
ロシアの初代大統領、故ボリス・エリツィン氏(1931~2007年)が故郷ウラル地方・スベルドロフスク州の「名誉州民」になったのは、没後3年近くもたった昨年1月のことだった。州都エカテリンブルクに白い大理石のエリツィン像(高さ10メートル)が完成したのは、生誕80年にあたった今年2月である。
政権末期の1990年代末には支持率が数%にまで落ち込み、不人気だったエリツィン氏にようやく“再評価”の光が当たり始めたようにも見える。
2月のエリツィン像の除幕式にはメドベージェフ大統領が駆けつけ、「最も困難な時期に国の改革が行われ、今日の前進があることについて、ロシアはエリツィン氏に感謝すべきだ」と述べた。
ソ連解体と民主化の立役者、エリツィン氏は中央政界入りするまでの76~85年、州の共産党委員会第1書記として地元発展に辣腕(らつわん)を振るった。
当時を知るエカテリンブルクの新聞記者、ベリャエフ氏(54)は「エリツィン氏は各地を精力的に飛び回り、住民や労働者と対話した。当時から、モスクワの党官僚とは全く違う言葉で話す政治家だった」と振り返る。
「エリツィン氏のおかげで90年代には中小ビジネスが発展し、言論の自由もあった」。ベリャエフ氏はこう語る一方で、「しかし現在のエリツィン再評価は住民に発したものではない。エリツィン関連の記事に寄せられる反響の9割はエリツィン批判だ」と話す。
■「安定」得た政権に危機感
「エリツィン氏に万一のことがあった時に備え、エカテリンブルク郊外の地下核シェルターに『臨時政府』を設ける準備も進められていたのです」
ロシア・エカテリンブルクにある民間学術機関、エリツィン・センターのキリロフ所長(63)は、ソ連末期の1991年8月にこんな計画があったことを明かす。
共産党守旧派が当時のゴルバチョフ・ソ連大統領を軟禁し、クーデターを試みた時のことだ。エカテリンブルクに州都を構えるスベルドロフスク州は、ロシア共和国大統領だったエリツィン氏の故郷である。
クーデターが4日目に失敗に終わるまで、エカテリンブルクでは、クーデター粉砕を呼びかけていたエリツィン大統領を支持するために連日、数万人がデモを続けた。「臨時政府」は、クーデター2日目にエリツィン氏が特使を通じて準備を指示したものだという。
85年に党中央に進出したエリツィン氏は、ペレストロイカ(改革)を打ち出すゴルバチョフ政権下で反主流の急進改革派として台頭。ゴルバチョフ氏が守旧派と改革派の板挟みになる中、ロシア共和国に大統領制を導入したエリツィン氏は大衆の支持を最大の武器に存在感を増していく。
そして91年8月のクーデターでゴルバチョフ氏の権威失墜とエリツィン氏の優位が決定的となり、歴史の歯車は12月のソ連解体へと急回転していった。
■正当化された強権
国民がエリツィン氏を熱く支持したのはしかし、ここまでだった。
モスクワの独立系世論調査機関、レバダ・センターのドゥビン社会・政治研究部長(64)は「92年にはもうエリツィン人気が下がり始めていた」と話す。
ドゥビン氏は支持率急落の理由として、(1)「ショック療法」と呼ばれた急進的経済改革(2)共産党優位だった議会との不断の対立(3)第1次チェチェン戦争-を挙げる。特に「価格の自由化」と国有企業の「民営化」を柱としたショック療法は、ハイパー・インフレや貧富の格差急拡大を招いて強い反発を買った。
98年の金融危機と自身の健康悪化も重なり、エリツィン大統領は99年末、KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチン氏(前大統領・現首相)を後継者に指名して退任。プーチン氏は「安定」を望む国民心理を逆手にとって強権統治を推し進め、それが多数派の支持も得ることになる。
■あくまで政治主導
エリツィン氏は「ロシアを大事にしてくれ」と言い残してクレムリンを去った。エリツィン政権初期のナンバー2だったブルブリス元国務長官(65)は「大事にすべきロシアについて、プーチン氏の考え方は違った」「出来上がったのはプーチンの個人権力体制であり、プーチンを後継者に指名したことは大きな過ちだった」と話す。
政権が今になってエリツィン氏を“再評価”してみせるのは、90年代と2000年代の「断絶」を糊塗(こと)し、民主化を後退させた自らを正当化する思惑からだろう。ブルブリス氏は、一応の「安定」を得た政権が「停滞」を危惧し始めたことが改革者・エリツィンを見直す背景にあるとみる。
ただ、“再評価”はあくまでも上からの政治主導である。
エカテリンブルクから車で約9時間のベレズニキ。エリツィン氏の母校プーシキン第1学校の前庭には、詩人のプーシキンでもエリツィン氏でもなく、ロシア革命の祖レーニンの胸像がたつ。校史を紹介するミニ博物館の一室でエリツィン氏に関する展示は、数点の書籍と新聞記事だけだった。
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20年前の6月12日、ソ連の中核だったロシア共和国で大統領選が行われ、当時のエリツィン共和国最高会議議長が当選した。直接選挙による指導者選出はロシア史上初めてだった。第3部は、民主化と改革への高まる期待が急速にしぼんでしまった、エリツィン政権の90年代を振り返る。
(中) 資本主義が世代を分断した
source : 2011.06.20 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
大学ノートよりやや小さめの紙には、ロシアの国章「双頭の鷲」が押されていた。バウチャー(民営化小切手)などと呼ばれるこうした紙が、人々の運命を大きく変えた。
「記念にあげる。配当金が請求できるわよ」。ソ連時代、“欧州への窓口”として栄えた露西部サンクトペテルブルクのアパートの一室。動物学者のワレンチーナさん(69)は、そう冗談を言って笑った。
末期のソ連は生産性低下や農業不振などの問題が一気に吹き出して、国民生活が困窮。エリツィン政権は1992年、急速な市場経済導入を目指して国営企業の民営化に着手した。国営企業の株式購入に使える額面1万ルーブル(同年6月時点で推定約1万円相当)のバウチャーを国民1人ずつに無料配布したのだ。
ところが、市場経済とは何かを理解しない人々は「半リットルのウオツカや、いくばくかの金と引き換えにバウチャーを売った」(ワレンチーナさん)。やがて莫大な数のバウチャーや株式を買い集めた少数の者たちが、国じゅうの生産工場や商業施設の所有者となる。
オリガルヒ(新興寡占資本家)と呼ばれる大富豪の中には、こうした混乱に乗じて財を成した者もいる。「国の資産を盗んだ」として、彼らを忌み嫌う高齢者は少なくない。
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「ソ連崩壊は中年以上の層にとって半生を全否定されたようなものだった」とワレンチーナさんはいう。
質の高い教育と医療がほぼ無料で受けられたソ連では、食費も安く、真面目に働けば狭くとも家族が一緒に住める部屋が得られた。
ところが、エリツィン政権はソ連崩壊後の92年1月、国家の価格統制を撤廃し1年で物価は26倍に跳ね上がった。93年は8倍、94年は2倍(いずれも前年比)とその後も上昇し続けた。
「貧しくともみなが平等」だったソ連は「金がすべて」のロシアに取って代わられ、重んじられたモラルや秩序も崩れ去った。ワレンチーナさんは「今でも共産党に一定の人気があるのは、古き良き時代に戻りたい高齢者らが投票するからよ」と指摘する。
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「ソ連崩壊で暮らしはよくなると信じ続けたが、何も変わらなかった。この20年は私には失望の時代。政治や政府をもう信じない」
サンクトペテルブルクに住むリュボーフィさん(55)は涙声で語った。大学で教えているが、月給は1万5000ルーブル(約4万3000円)。部屋は質素でダイニングキッチンは3人も座れば隙間もない。ソ連崩壊前の91年初めに結婚して以来、この部屋に住んでいる。
仕事から戻った夫は当時、不在の新妻を探してたびたび街を歩いた。妻は夕食の材料を求めて食料品店の長い行列に加わり、売り切れたら別の店で列に並ぶことを繰り返していた。
「家には、枕も皿も冷蔵庫も何もなかった。だけど私たちは若かった。チーズが買えればチーズの日だ、肉が買えれば肉の日だといって、近所の友人を招いてパーティーをしたものよ」
しかし、彼女の父親は違った。価格が自由化された92年1月のレート・1ドル=110ルーブルは96年には5000ルーブルを割り込み、娘のためにと嫌いな自動車工の仕事で貯めたお金は紙くずになった。ルーブル暴落で生きる気力をなくした父親は、病に伏せり97年に死亡した。
エリツィン政権下の急進改革で絶望に見舞われた父親の世代と、ソ連時代を知らない若い世代。その間の世代に位置するリュボーフィさんは、「世代によって環境が違いすぎて、だれにも本当のロシアの姿は見えないのではないか」と話した。
(下)
source : 2011.06.21 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■過ちも希望もあった時代
ロシアのウラジーミル・ルイシコフ元下院議員(44)が故郷のシベリア・アルタイ地方で副知事になったのは1991年、弱冠25歳の時だった。地元でペレストロイカ(改革)を支持する民主化運動組織を主宰しており、当時のエリツィン大統領が任命した改革派知事によって抜擢(ばってき)されたという。
ソ連崩壊を経た93年以降、ルイシコフ氏は下院選に連続4回当選し、若手リベラル派の旗手として活躍。だが、2003年の選挙を最後に出馬の機会を奪われる。00年にエリツィン氏の後を継いで大統領に就任したプーチン氏(現首相)が、下院選の小選挙区制度を廃止して比例代表に一本化、ルイシコフ氏の政党も登録を抹消されたためだ。
ルイシコフ氏はエリツィン氏の「過ち」として、(1)第1次チェチェン戦争(2)民主主義の「制度づくり」を軽視したこと(3)プーチン氏を後継指名したこと-の3点を列挙。他方、「功績は市場経済を導入し、プーチンと違って民主的に政治を行ったことにほかならない」と話す。
■リベラル派の反発
ソ連崩壊後にエリツィン政権が断行した急進的経済改革が庶民生活を翻弄し、不評だったことは前回までに紹介した。そのあと登場したプーチン政権は「1990年代=混乱期」と喧伝(けんでん)し、「安定」と「大国再興」を盾に、強権支配や経済の国家統制を推し進めた。
リベラル派は、そうしたプーチン流の90年代評価に真っ向から反発する。
94~97年に大統領補佐官を務めたサタロフ氏(63)は「(経済体制の)移行が過酷だったのは、長らく必要な改革が行われず、経済がもはや心肺停止状態になっていたためだ」とし、急進改革以外に道はなかったと強調する。
「2000年まではビジネスが発展し、経済は十分に良い傾向を見せていた。(プーチン氏がいなければ)人々はより豊かになり、今ほど(役人に賄賂を)かすめ取られることもなかったに違いない」
サタロフ氏が最も問題視するのは、プーチン政権下で官僚機構を監視すべき議会や報道機関、社会団体が骨抜きにされ、汚職が深刻さを増したことだ。
エリツィン時代末期、商売絡みで支払われる賄賂の平均額で新築アパート30平方メートルが買えるとされたが、05年にはそれが200平方メートル相当にまでなったという指摘まである。
■風前のともしび
だが、プーチン批判が大きな政治的うねりになる兆候はなく、リベラル派は風前のともしびだ。このことは政権による反対派弾圧や選挙不正、言論統制だけで説明できるものでもない。
モスクワの独立系世論調査機関、レバダ・センターのドゥビン社会・政治研究部長(64)は「国民の6割がエリツィン時代には『悪いことの方が多かった』とみている。(1990年代に)エリツィン氏の支持率が急落したのと並行し政治への関心も失われた」と話す。
逆に、「ある程度の生活水準が確保されることと引き換えに、時の権力に全てを委ねる」というロシアの伝統的な政治観が頭をもたげており、ドゥビン氏は「石油価格の下落や戦争が起きない限り、多数派は今ある政権に投票するだろう」とみる。
冒頭の政治家、ルイシコフ氏は昨年9月、ネムツォフ元第1副首相らと反政権リベラル派の連合体を結成し、今年12月の下院選、来年3月の大統領選に向けて政党登録を申請している。「90年代には多くの過ちがあったが、希望もまた多かった」と話すルイシコフ氏が、再び中央政界に返り咲く日は来るだろうか。
元露国務長官インタビュー 「私の中に2人のエリツィン」
source : 2011.06.19 産経ニュース (ボタンクリックで引用記事が開閉)
ソ連崩壊期から新制ロシア初期にかけてエリツィン・ロシア大統領(在任期間1991~99年)の最側近だったブルブリス元国務長官(65)が産経新聞のインタビューに応じ、エリツィン氏の「功罪」を語った。ブルブリス氏は「私の中には2人のエリツィンがいる」とし、第1次チェチェン戦争の開戦(94年12月)を境にエリツィン氏が「非凡な創造者」の精彩を失っていったと指摘する。発言要旨は次の通り。
■天性のリーダー
エリツィンは勇気と責任感をもった天性のリーダーであり、ドグマ(教条)を打ち破って新制ロシアの歴史を創造した人物だ。93年12月の国民投票でロシア憲法が承認されるまでが「創造者」の絶頂だった。
91年8月19日、共産党守旧派によるクーデターが発生した日には、彼の政治家としての本能を見た。
最高会議ビルを包囲しようと戦車がやって来たと知り、彼は制止するのも聞かずに「そこに行く」と言う。戦車の上でクーデターへの不服従を訴える映像は、30分後には世界に流れた。撃たれるかもしれないリスクと同時に状況を変える大きな可能性を彼は見たのだ。
■「ショック療法」
新制ロシアが遺産として受け取ったのは完全に崩壊した経済であり、いかなる漸進的改革も通用しないものだった。私たちの前にあったのは、どう人々を食べさせるか、どう住居を暖めるかという死活問題だったがために、価格自由化や国有企業の民営化という急進的経済改革が行われた。
この改革が「ショック療法」と呼ばれるのは正しくない。ソ連指導部が経済破綻というショックをもたらしたのであって、私たちはショックを生き抜く方策をとったのだ。ゴルバチョフ・ソ連大統領が私たちの働きかけた(市場経済移行の)「500日計画」を実行しなかったことがソ連崩壊を引き寄せたといえる。
■精彩失った末期
私の中には2人のエリツィンがいる。“2人目”は94年、(独立を求めていた)チェチェン共和国との開戦が宣言された時に始まる。エリツィンは3日でチェチェンを鎮圧できると(周囲から)言われていただけに、何年も続いたこの戦争は後々まで精神的トラウマとして彼を苦しめた。
これ以降のエリツィンは傑出した面の多くを失っていく。(苦戦した)96年の大統領選しかり、政権末期に閣僚が際限なくすげ替えられたことしかりだ。新たに台頭したオリガルヒ(新興寡占資本家)が政治に介入し、過度の権力を握ったのは私たちが理想としたことからの後退だった。
■プーチンは過ち
今日のロシアに出来上がったのはプーチンの個人権力体制であり、プーチンを後継者に指名したことはエリツィンの大きな過ちだった。プーチンのロシアでは民主主義の成果が切り詰められ、国の命運に責任を負うべき賢明で自立した人々の競争が抑えつけられた。
確かにプーチンは国を安定させたし、相次いだテロは彼にとって試練だっただろう。だが、その代わりに知事選挙も真の連邦制もなくなり、今は過度の中央集権が進んでいる。一党による独占的な政治や資源頼みの経済構造も決して国のためにはならない。
■停滞から脱却を
今日の国の状況と課題は(ソ連が解体した)20年前と似ている。「安定」のように見える「停滞」から脱却するために、決断力のある行動が求められているのだ。ここにエリツィンが再評価される理由の一つがある。20年前の改革と同様、現政権が「近代化」を死活的に重要だと考えてくれることを期待している。
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【プロフィル】ゲンナジー・ブルブリス氏
1945年生まれ。91年6月のロシア大統領選でエリツィン氏の選対本部長を務め、92年末までエリツィン政権で国務長官や第1副首相などを歴任。91年12月のソ連解体合意ではシナリオを描いた“黒幕”とされる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
■エリツィン氏とソ連、ロシアの歩み
1991年 6月12日 ソ連・ロシア共和国大統領選で当選
8月19日 ソ連守旧派によるクーデター(~22日)
12月 8日 ロシア、ウクライナ、ベラルーシ首脳がソ連消滅と独立国家共同体(CIS)創設を宣言
92年 1月 2日 価格自由化政策を開始
93年10月 4日 守旧派の籠城した最高会議ビルを武力制圧
12月12日 新憲法の国民投票と新議会の選挙実施
94年12月11日 チェチェン共和国に進攻(第1次チェチェン戦争、~96年)
96年 7月 3日 大統領選決選投票で再選
98年 8月17日 ルーブル通貨切り下げと対外債務の支払い猶予を宣言(通貨・金融危機)
99年12月31日 電撃辞任。大統領代行にプーチン首相を任命
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