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2012/08/25


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【日露】「浦潮」から抑留へ…露ウラジオストクに残る日本人の足跡

source : 2012.08.25 産経ニュース【日本人が知らない日本】 (クリックで引用記事開閉)
ロシアが9月初旬、初めて主催するアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の会場としても注目されている露極東のウラジオストク。ロシア革命(1917年)の頃までは商人らが積極的に進出して日本人街を形成するなど、歴史的に日本人とのゆかりが深い地だ。第2次大戦後には、強制抑留された日本人の収容所が多数あったことでも知られる。在ウラジオストク日本総領事館などが編纂(へんさん)した「浦潮旧日本人街散策マップ」を頼りに、市内中心部に残る日本人の足跡をたどった。

ウラジオストクはもともとロシア語で「東方を征服せよ」の意。帝政ロシアが1860年の北京条約で清朝に割譲させた地域にあり、アジアへ勢力を拡張する上での軍港都市として開発が進められた。同時に、明治時代(1868~1912年)の初期から日本人との関係は深く、歴史的には「浦潮」とか「浦塩」と呼ばれていた。

そんな呼び名を今にとどめているのが、「浦潮本願寺跡」(写真(1))だ。西本願寺は1886年、ウラジオストクに初めての海外布教所を開き、故郷を離れて暮らす日本人の精神的よりどころとなっていた。現在の記念碑が立つのは1914年から37年の閉鎖まで、浦潮本願寺の建物があった場所だ。

明治時代の自由な風が、日本人に海を渡らせたのだろう。20世紀初頭の在留邦人は約3千人を数え、さまざまな事業を興して大いに成功していた。この頃、堀江商店、瀬能商店、大田商店の入っていた建物(写真(2))は今、極東連邦大学の一部として使われている。1904年の日露戦争ではほとんどの日本人がいったん引き揚げたが、戦後まもなく戻り、再び日本人社会は拡大した。

ウラジオストクはシベリア鉄道の起点でもあり、12年には詩人の与謝野晶子(1878~1942年)がパリにいた夫の与謝野鉄幹に会うためにこの地を経由した。極東連邦大の敷地内にはそれを記念する石碑(写真(3))が94年に設けられ、彼女の作品「旅に立つ」が刻まれている。

しかし、ロシア革命とその翌年からのいわゆるシベリア出兵が、ウラジオストクでの短い日露友好期に終止符を打つ。

ウラジオストクは革命後の内戦期に反革命勢力や外国干渉軍の拠点となり、日本は連合国で最大規模の部隊を派遣。当時の在留邦人は5千~6千人に膨らんでいたが、日本軍が撤兵した22年までには大半の日本人が引き揚げを余儀なくされた。

当時の日本軍が「浦潮派遣軍司令部」としたホテルは今、ロシア内務省の沿海地方本部(写真(4))となっている。

第2次大戦後に目を転じれば、ウラジオストクを中心都市とする沿海地方には多数の日本人収容所が集積していた。市内には強制労働を課された日本人の手になる多くの建造物が残っている。市民の憩いの場となっている海岸通りの石垣(写真(5))や、運動競技場のディナモ・スタジアム(写真(6))はその一例だ。

ソ連崩壊後、外国人の立ち入れない「閉鎖都市」だったウラジオストクは開放され、今度は日本製中古車の一大輸入拠点となる。市内を走る車のほとんどは右ハンドルの日本車だ。新潟、秋田、函館の各市と姉妹都市の関係にもあり、北方領土問題を除けば対日感情は良いといえる。

ロシアはAPEC開催を機にウラジオストクを「アジアへの窓」として発展させたい考えで、今後も日本との関わりは深まるに違いない。この地に、平和な日露関係の歴史が刻まれることを願いたい。




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