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■稲山嘉寛 (第5代経団連会長)
■斎藤英四郎 (第6代経団連会長)
■今井敬 (第7代新日鐵社長、第9代経団連会長)
「中国をつけ上がらせた親中派の財界人&経済人列伝シリーズ」の第1回は、新日本製鐵の初代社長の稲山嘉寛(1970年3月に社長就任、第5代経団連会長)から、斎藤英四郎(4代目社長、77年就任)、今井敬(第7代社長、93年就任)、三村明夫(第9代社長、03年就任、前会長)らを取り上げる。斎藤、今井は経団連の6代目と9代目の会長になった。
なぜ新日鐵は中国に入れ込んだのか? それは同社をはじめとする高炉各社が、中国の製鉄所建設に積極的に協力したのは国内が鉄鋼不況だったからだろう。近視眼的な利害得失で中国の製鉄業を支援した結果、その中国の鉄鋼業が日本の競争相手となり、そしてとうとう日本を圧倒する存在となった。11年の鉄鋼の世界ランキングで中国企業が上位を独占し、日本の新日鐵は5位にも入れなかった。
ちなみに11年の鉄鋼企業による粗鋼生産量の世界ランキングは、
【順位 メーカー名 国名 粗鋼生産量(万トン)】
1 アルセロール・ミッタル ルクセンブルグ 9720
2 河北鋼鉄集団 中国 4440
3 宝鋼集団 中国 4330
4 ポスコ 韓国 3910
5 武漢鋼鉄集団 中国 3770
6 新日本製鐵 日 3340
…
9 JFEスチール 日本 2980
…
27 住友金属工業 日本 1270
となっている。
それでは、歴代“戦犯”社長を、その偉業とともに紹介していこう。
■稲山嘉寛 (第5代経団連会長)
「中国から石油と石炭を日本へ輸出し、日本から設備、資材を中国へ輸出する」という長期協定構想は、72年の日中国交正常化後、周恩来総理、稲山嘉寛経団連副会長、(財)日中経済協会会長を初めとする関係者の間で打診・検討が重ねられてきた。77年にこれが実現に向かい、同年10月には日中長期貿易取決め推進委員会が設立され、中国側においても中日長期貿易協議委員会がつくられた。
78年 1月31日に日中長期貿易取決め推進委員会の総会が開催され、取決めの文案が承認されると共に、推進委員会を改組し、日中長期貿易協議委員会が発足した(委員長は稲山嘉寛)。本委員会の代表団が同年 2月訪中し、16日に稲山委員長と劉希文・中日長期貿易協議委員会主任との間で日中長期貿易取決めが調印された。
新日本製鐵の中国・宝鋼集団に対する技術協力は、77年11月、新日鐵の稲山会長が日中長期貿易委員会の代表として訪中した際に、李先念副主席から大型一貫製鉄所建設の協力要請を受けたことからスタートした。78年10月にトウショウヘイ副総理が来日し、君津製鉄所を視察したことが、計画推進の大きな後押しとなり同年12月に第一期工事に着工した。
上海宝山製鉄所は、中国最大の工業都市であり消費地でもある上海に初の臨海製鉄所として立ち上げることとなった。新日鐵の君津、大分、八幡製鉄所をモデルに最新鋭の設備が導入され、中国で初の近代的な工場管理システムが移植された。
一期工事(第1高炉、転炉3基、分塊工場)は中国側の資金が途切れても、日本側のファイナンスの供与によって継続された。第二期工事(第2高炉、コークス工場)などの契約はキャンセルされた。およそ8年の歳月(正確には7年10ヵ月)をかけて、85年9月に第1高炉の火入れが行われた。
第二期工事は、中国側が国産設備で対応可能なものは国内で生産する方針をとり、新日鐵は合作設計製造という形で協力した(つまり、タダか、タダに近い対価で技術を出してやったわけだ)。宝鋼は00年6月までに第三期工事を完了。04年7月に合弁会社宝鋼新日鐵自動車鋼板有限公司(BNA)が設立された。
上海宝山製鉄所の建設は中国の「改革・開放」政策後の中核プロジェクトであり、78年2月に日中間で調印された「日中長期貿易取り決め」の第1号プロジェクトでもあった。既に書いたように、「日中長期貿易取り決め」の日本側の調印者は稲山嘉寛だった。稲山は中国の建国以来最大の重工業建設プロジェクトを、日中合体で推進した中心人物ということになる。
第一期工事は日本側に任せて、最新技術を吸収する。二期目から自前の技術(国産技術)と称して、ここでも合作設計製造というかたちで、日本の先端技術の供与をほぼ無償で受け(この無償の意味は、ODAなどによって中国側は一銭も金を払わなかったということを指す)、プロジェクトを仕上げる。
東日本旅客鉄道(JR東日本)は新幹線の技術を中国側に供与したが、中国側はこれを国産技術と僭称し、米国にまで売り込みをかけるようになった。この驚くべき事実についてはシリーズ第3回で述べる。
こうした最新技術を盗むシステムの最初の協力者が稲山嘉寛ということになる。
■斎藤英四郎 (第6代経団連会長)
78年、田中内閣で外相を務めた大平正芳が首相になると、「より豊かな中国の出現が、よりよき世界につながる」と表明し、膨大な額の対中ODAが開始された。これこそ、日本の命取りになるものだった。これは、賠償的色合いを帯びたODAで、7兆円もの額を以後30年にわたり供与することになった。これは当時の中国のGDPに匹敵する額。これを共産党が支配する中国に流し込んだ。ODAが中国を今日の怪物(モンスター)に仕立て上げた栄養源となった。
中国にはODA以外にも巨額のジャパン・マネーが流入した。日本の経済界は、国交正常化とODAの開始をビジネスチャンスととらえ、中国へ次々と進出した。特に、新日鐵は最新鋭の製鉄設備を次々と中国へ進出させ、世界から「なぜ最新設備を中国へ差し出すのか」と訝しがられた。当時、日本企業の中国進出の先頭に立っていたのが、新日鐵の第4代社長の斎藤英四郎である。彼は山崎豊子の小説「大地の子」のモデルとなった上海宝山鋼鉄誕生を新日鐵が支援した際の社長であり、中国進出は「戦中の罪滅ぼし」と考えていた。
「大地の子」はNHK放送70周年記念番組として、日中の共同制作によりドラマ化されたが、当時からアメリカの情報筋は中国の対日工作の一環と断言していた。
■今井敬 (第7代新日鐵社長、第9代経団連会長)
今井敬はかつて、こう語ったことがある
「1998年に経団連会長になってありがたかったのは、海外の要人に会えたことだ。米国大統領と英国女王以外は面談時間をもらえた。頻繁に訪れた中国では(反日教育を推進した親玉である。筆者注)江沢民国家主席、朱鎔基首相、胡錦濤国家主席、温家宝首相らに親しく接することができた」
まじかよと言いたい。この程度の認識しかない人物が中国にからめ取られていったのである。
「中国を最初に訪れたのは1966年。62年から始まったLT貿易【※注】に参加するためだった。当時、日中に国交はなかったが、62年に国が保証をつける長期貿易の覚書を交わした」
※注 LT貿易
1963-67年に実行された貿易のかたち。LT貿易は廖承志、高碕達之助の両国通商代表者名にちなんでつけられた。年間平均1億ドル規模の貿易量だった。LT貿易の期限切れに伴い68年から日中覚書貿易に改められた。日本が中国敵視政策をとらないことなどの政治三原則と政経不可分の原則の順守が確認された。
歴代経団連会長「財界の後押しで日本と中国が経済協力」
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■三村明夫 (新日鐵第9代社長、日中東北開発協会会長)
■土光敏夫 (東芝社長、第4代経団連会長)
■平岩外四(第7代経団連会長、東京電力の社長&会長)
■奥田碩 (トヨタ自動車社長&会長、日本経団連第10代会長)
シリーズ1で紹介した新日鉄社長は、同時の多くの人物が経団連の会長も務めた。日本の大企業が集結する経団連も、中国との経済交渉などを締結することで、外貨や技術を流出させてきた罪は大きい。シリーズ2では、新日鉄社長だけでなく、東芝に東京電力、そしてトヨタと、経団連会長の中での戦犯をあげていく。
■三村明夫 (新日鐵第9代社長、日中東北開発協会会長)
豊富な資源とすぐれた産業基盤を有する中国東北地方(遼寧省、吉林省、黒龍江省、内モンゴル自治区)は、日本にとって地理的に近いだけでなく、長い交流の歴史を共有する地域である。
中国改革開放政策のもとで、この地方の対外開放の窓口として大連が沿海開放都市に指定された1984年、両国関係者の強い支持を得て、日中東北開発協会(当初名称=大連経済開発協力会,一年後に現名称に改名)が発足した。この地方とわが国との経済交流促進のためのかけ橋の役割を果してきた。
中国東北振興政策をはじめとする各地域開発計画などの中国経済発展のゆくえこそ、21世紀の歴史を左右する重要なキーポイントのひとつである。その中で、東北地方は製造業、農業、人材供給などの世界的な一大基地建設をめざし、巨大な市場を形成しようとしており、しかも、この地方ほどわが国との協力関係の進展を強く希望している地域は他にはない。日本としても、この地域との相互補完と協力関係を一層深めつつ、新たな経済発展の展望を開きたいと考えている。
これが三村の役割なのだ。
歴代の経団連会長に、中国側は、巧妙にそれぞれの役割を割り振っていた。
■土光敏夫 (東芝社長、第4代経団連会長)
日中間では78年2月、民間団体によって「日中長期貿易取決め」が締結され、同年8月、両国政府によって「日中平和友好条約」が締結された。同取決めは民間協定となっていたが、中国側の担当の中日長期貿易協議委員会は、政府機関同然であった。
中国政府の同取決め締結の狙いはふたつあった。ひとつは、中国の近代化に不可欠な日本の技術を導入するための外貨が不足したため、日本へ原油と石炭を輸出することによってそれを解消するという経済的な狙いであった。そして、具体的なプロジェクトとして宝山を第一に挙げた。もうひとつは、当時懸案となっていた日中友好条約の締結の後押しを含む「関係増大をフィーバーする」という政治的な狙いであった。
当時の中国はソ連の覇権主義に対抗するため、日本との友好関係を必要としていた。この点については、同取決めの調印式後に行われた副首相・李先念と経団連会長・土光敏夫、新日鐵会長・稲山嘉寛をはじめとする経団連訪中団との会談で、李先念は「日中長期貿易取決め」とは直接関係がない日中平和友好条約にも言及し、「日中平和友好条約について努力していただきたい」と土光や稲山などに要請した。
中国政府が外交政策に絡んでビジネスを進め、稲山への接近を試みたのは今回が初めてではなかった。建国後しばらく友好関係にあった中ソ関係にきしみが見られ始めた1958年に、中国政府は対日接近を図り、一国の総理である周恩来が一企業の経営者に過ぎない稲山の訪中を招請し、日中鉄鋼協定を締結した。稲山の役割は特に大きかったことはシリーズ①で書いた通りである。
「日中長期貿易取決め」は財界主導によって進められた。ここで注目されるのは、日本政府がそれに対してどのような態度を示したかである。この時期は、文革後中国の内政の安定化に伴い、日中平和友好条約の締結交渉が再開され、日本政府は日中平和友好条約の締結を目指していた時期であった。そして、民間のこうした動きに対し、日本政府は中国への経済協力を行うという政策を決定した。文革後の中国の近代化政策は、日本及び西側諸国にとって有利であるという戦略的分析に基づき、「中国の安定的発展を確保することが日本の国益」にかなうとの判断によって、日本政府が中国に対して経済協力を行うという国策を決めたのである。その後も、中国経済が巨額の財政赤字や空前のインフレ、エネルギー不足に悩み、宝山を含む「基本建設」プロジェクトの見直しによって、中国側が日本企業などとのプラント契約を一方的に破棄した際、日本政府は巨額の円借款を中国に提供するなど一貫して中国への経済協力姿勢を示し、中国側を窮地から救った。
日本政府のバックアップがなければ、宝山建設計画は大幅に延期されていたであろう、と中国側の関係者が当時の状況を回顧している。
鉄鋼不況の打開に苦しむ日本の高炉各社は、当然のことながら中国の製鉄所建設計画に積極的な協力姿勢を示した。中国政府の「関係増大をフィーバーさせる」方針は、対日接近・友好を図ることによって、反ソ統一戦線を形成するという当時の外交政策によって決まった。そして、宝山プロジェクトは、対日接近・友好を図る上で有力な手段である「日中長期貿易取決め」の第1号プロジェクトに指定された。
■平岩外四(第7代経団連会長、東京電力の社長&会長)
平岩は悲惨な戦争体験が原点になっている。陸軍二等兵として召集令状を受け、酷寒の満州から、絶望的な南方戦線へと転戦する。ニューギニアの密林では生死の境をさまよい、117人の中隊のうち生還者はわずか7人。この悲惨な戦争体験がその後の平岩の人生観と徹底した反戦・平和主義の原点となる。
ある時、太平洋戦争の責任について話すことがあったが「敗けると分かっている戦争をどんどん拡大し、多くの人に多大な犠牲と苦痛を与えた15年戦争は、歴史的にみても大きなあやまちであった」「欧米の植民地支配からアジアの人々を解放した正義の戦さだとの見方は納得できない」と、きっぱり言い切った。
小泉純一郎・元首相の靖国参拝についても「戦場で傷つき、飢えや病のまま密林に消えていった仲間の姿は悲惨だった。あの方たちが靖国の森に戻っているとは思えません」と厳しい口調で批判した。
■奥田碩 (トヨタ自動車社長&会長、日本経団連第10代会長)
小泉純一郎政権時の05年、首相の靖国神社参拝などで日中関係が極度に冷え込んだが、経団連の奥田碩会長(当時)が同年9月、日中経協の訪中団の一員として温首相と会談。その4日後に再度訪中し、胡錦濤国家主席と極秘に会談した。小泉首相からの「親書」を託されたと言われている。
JR東日本&川崎重工「中国の新幹線はJRの技術の盗用」
source : 2012.10.09 Business Journal (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■JR東日本(東日本旅客鉄道)の松田昌士・元会長&社長
■川崎重工業の大庭浩・元社長&会長
中国の揚潔篪(よう・けっち)外相は、ニューヨークの国連総会(193カ国が加盟)で一般討論演説を行い、日本政府の沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の国有化を「重大な侵害」と名指しで批難した。揚外相は、日本が1895年の日清戦争で尖閣諸島を「盗んだ」と主張した。
だが、日本の先端技術を、国ぐるみで堂々と盗んでいたのはどっちなのだろうか? 第3回は、このシリーズで最大の戦犯にあたいする2人の経営者について書くことにする。
■JR東日本(東日本旅客鉄道)の松田昌士・元会長&社長
新幹線技術を供与した張本人。中国は国産技術と僭称して米国やアジア諸国に売り込みをかけている。技術を盗まれると確信していたJR東海の葛西敬之会長は技術を出さなかった。JRの経営トップでもこれだけ対中国観が違うということだ。JR東日本と組んで新幹線の車輌(技術)を提供した、川崎重工業の契約が「技術を盗んで下さい」といわんばかりに杜撰だったことが、新幹線技術を中国に盗まれる原因となった。
■川崎重工業の大庭浩・元社長&会長
もともと川崎重工業およびJR東日本による中国への車両技術の供与については、日本国内でもJR東海が強く反対するなど大きな軋轢を抱えていた。JR東海の葛西敬之会長も「中国に最先端技術を売ることは国を売るようなものだ」と喝破した。
川崎重工業とJR東日本による中国への新幹線技術の売り込みに一貫して反対していたのは、国鉄改革三人組の一人で民営化を成功に導いた現JR東海会長の葛西敬之氏だった。葛西氏は「中国に新幹線のような最先端技術を売ることは国を売るようなものだ」とまで言って反対した。
中国は海外企業による中国への現地進出や技術供与を認める条件として、技術の完全公開や技術移転を求めていた。葛西氏は、技術供与料やロイヤルティーを支払うことなく公然と技術を盗用する中国側に強い警戒心を抱いていた。にもかかわらず川崎重工業らは、技術供与契約を交わすに当たって、中国側に「すべての技術を公開する」と約束してしまった。
葛西氏の危惧は的中した。北京―上海高速鉄道を開業したが、その際、世界最速の時速380キロで走行する新幹線車両「CRH380A」の車両技術について、中国側は次々と国際特許出願の手続きをアメリカなどで始めていたことが明らかになった。
「CRH380A」の車両技術は、川崎重工業が東北新幹線「はやて」(E2系車両)をベースに技術供与したもの。中国側はこれを「独自開発した」と主張して国際特許出願に踏み切った。川崎重工業の技術陣は「モーターの出力を上げただけでE2系と基本的な構造に変化はない」と言い切っている。葛西氏が危惧したとおり、中国側は抜け抜けと日本の新幹線技術を盗用し、あろうことか国際特許を出願したことになる。
これらを見ても、川崎重工の責任は重い。
中国高速鉄道の技術はJRのものだ。JR東海の葛西敬之会長は中国の高速鉄道について「外国の技術を盗用」、「安全を軽視」などと述べた。
葛西会長は英紙フィナンシャルタイムズの取材に応じて、「中国の高速鉄道は安全性を軽視することで、限界まで速度を出している」と述べ、技術も「外国企業から盗用」と主張した。
葛西会長の発言について中国側は「われわれの技術は、日本のような島国向けの技術と違う」と言い放った。「島国向けの技術などとは違う」という発言は、中国の中華思想に裏打ちされたものだといっていい。「(米国などへの高速鉄道の売り込みで)競争になっているので、日本企業は感情的になっているのだろう」とも述べた。詭弁である。
川崎重工から供与を受けて東北新幹線「はやて」の技術を応用してそれより速い高速鉄道列車を作り、「自主開発」と称して海外に輸出する行為は契約違反である。
川崎重工は米紙ウォール・ストリート・ジャーナルの取材に対し、中国が「自主開発」と主張して中国で運行している高速鉄道車両は、技術を供与した我々のものと瓜二つ。その上、それより速いものを作り海外に輸出し始めたことに不満を表明した。川崎重工によると中国政府との契約では供与した技術は中国国内だけでしか使用できず、その技術を応用して作った製品を輸出することはできないことになっている。
「中国の高速鉄道技術は海外の技術を盗んだもの」との考えが国際社会で広まっているが、中国鉄道部は「350キロ(を出す)の技術があるのに、なぜ250キロの技術を盗まなければならないのか」とこれを一蹴する。「多数の特許を申請しており、完全に独自の知的財産権を持っている」と主張した。
中国側は「技術供与を受ける際、巨額の特許料を支払っている。合法的な使用は“盗作”にはあたらない」と反論している。自分達に都合のよいように契約を拡大解釈しているのだ。
東日本大震災でも死傷者が出ず、半世紀近く「安全神話」を維持する新幹線。海外輸出を具体化させているのは今はJR東海だけだ。政府の支援を受けて車両や運行システムも含めた「トータルシステム」の輸出を目指す米国で、日本の技術を盗用した中国版新幹線が立ちはだかる可能性が高くなっている。
中国の北京-上海間で運行している中国版新幹線「和諧(わかい)号」について、「技術は日本やドイツから導入されたものがほとんど。安全性を無視して最高速度を設定した」と中国鉄道省の元幹部が中国紙に暴露し、中国の「独自技術」とする主張の信憑性は大きく揺らいでいる。
関係者は日本側の事情を明かす。新幹線では技術流出の恐れはあったのに、川重はどうして技術を供与したのか。「技術流出は懸念したが、社内で何度も話し合って輸出を決めた。ビジネスチャンスを求めなければならないからだ」
日本国内の鉄道網の整備が飽和状態となる中、日本勢は海外に活路を求めざるを得ない。高速鉄道に加え、地下鉄などの広大な都市鉄道計画を内包する中国へは日本の車両メーカーなどが個別に進出している。
川崎重工は中国の巨大市場に目がくらんだのだ。
パナソニック「現地工場で破壊行為」…松下幸之助の築いた友好も無に」
source : 2012.10.11 Business Journal (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■松下幸之助(パナソニック創業者)
■キャノン、御手洗冨士夫会長兼社長 第11代日本経団連会長
■現役の親中派経済人の重鎮は、トヨタ自動車の張富士夫会長
4回目は中国で「最初に井戸を掘った人」と称えられる、“経営の神様”、松下幸之助から、先代の経団連会長、キヤノンの御手洗冨士夫、トヨタ自動車の張富士夫などを解説する。
■松下幸之助(パナソニック創業者)
中日友好協会(廖承志会長)から招待を受けた松下幸之助・相談役(当時)は、1979年6月25日から7月4日まで訪中し、熱烈な歓迎を受けた。
松下は滞在中、鄧小平副首相、鄧頴超全国人民代表大会常務委員会副委員長(故周恩来首相夫人)ら中国要人と親しく会見した。
中国要人から掛け軸「天寿の歌」を贈られた相談役は、「天寿とは160歳のこと。あと80年間、私も生きるが、みなさんも生きてほしい」と述べ、大きな拍手を受けた。6月28日には、中国企業管理協会の要請で、「企業経営のあり方」について約2時間半にわたり講演した。
また、前年の78年10月に来日した際に面談した鄧小平副首相とは、2回にわたり人民大会堂で懇談し、旧交を温めた。相談役は「21世紀は日本や中国などの繁栄の時代。大きな視野で、中国の近代化に協力しなければならない」との確信をさらに強めた。帰国後、対中産業協力について、各界に積極的に働きかけた。
今回の中国の反日騒乱デモは、日系の工場や商店を放火や略奪の対象にし、日中関係の土台となってきた経済活動を直撃している。パナソニック(旧松下電器産業)など、中国経済の飛躍を助け、「井戸を掘った」功績を中国で認められてきた企業ですら被害を免れなかった現実が、中国ビジネスに深刻な影を落とすことは避けられない。パナソニックの工場では、そこで働く現地の従業員が設備を破損した例もあるという。
中国に進出した日系企業はこれまでも、現地の情勢混乱や反日デモの影響で、操業停止などを迫られてきた。とりわけ、中国の民主化要求運動が弾圧された89年6月の天安門事件や、03年春の新型肺炎(SARS)の流行では、操業停止や駐在員の国外退避が多数の日系企業に及んだ。
今回の反日デモは、山東省青島や江蘇省蘇州など、政治的な統制が及びにくい地方都市で暴動に発展した。被害を受けたパナソニックやトヨタは、日本の有名ブランドとして現地で親しまれていたことが逆に、暴動の標的となる皮肉な結果を招いた。
パナソニックと中国の関係は、松下電器産業時代の78年10月、大阪府茨木市の工場で、創業者の松下が、中国の近代化路線を進める鄧(当時副首相)を迎えたときから始まった。
電子工業分野の近代化を重視していた鄧が、「教えを請う姿勢で参りました」と切り出したのに対し、松下は「何であれ、全力で支援するつもりです」と全面的なバックアップを約束した。
松下は、改革・開放路線の黎明期に日中経済協力に踏み出した功績で、中国では「最初に井戸を掘った人」と賞讃されてきた。同社が87年に北京で設立したカラーブラウン管の合弁工場は、天安門事件前後の戒厳令下でも操業を続けた。
今回の事態は、これら過去の功績が、中国での安定した操業を保証するものではないことを印象付けた。中国での企業活動には、「政治」というリスクがつきまとう。日系企業の場合は、繰り返し噴出する反日意識の標的となるわけで、異質なカントリー・リスクが、より一層、対中ビジネスを難しいものにしている。
■キャノン、御手洗冨士夫会長兼社長 第11代日本経団連会長
IT関連業界初の財界総理(経団連会長)も、中国の巨大市場という幻想にとうとうよろめいてしまった。
御手洗は、キャノンの複写機やプリンターの最先端工場は故郷、大分に建設してきた。理由は、最先端技術が流出する懸念があるから、中国に工場を作ることに二の足を踏んでいたのだ。しかし、キヤノンの主要な市場である欧州で、売り上げが伸びないこともあって、中国にシフトした。先見性と未来予知力が必要不可欠な財界リーダーとしてはお粗末だ。
なお、御手洗は06年から09年まで4年連続で、9月の日中経済協会訪中代表団最高顧問を務めている。
中国は海外企業による中国進出や技術供与を認める条件として、技術の完全公開や技術移転を求め、国家公認で公然と技術を盗み取るという事実に、御手洗は、もうとっくに気づいていたはずだ。
■現役の親中派経済人の重鎮は、トヨタ自動車の張富士夫会長
中国政府は国内自動車産業育成のために、「中国企業との合弁」という条件を満たした外国企業の参入を認めた。これは、利益の半分を中国側に渡さなければならない上に、先端技術などが流出する危険がある不平等条約だったが、世界最大の人口を持つ市場に対する魅力は大きく、日本の自動車メーカーが次々と中国市場に参入した。
トヨタは張社長の時代の04年に合弁事業を開始。中国側は、合弁会社から得た利益と(盗んだ)技術を元に、中国資本の自動車メーカーを設立。トヨタを上回る生産と販売をあげるまでに急成長した。
彼らの次なる狙いはハイブリッド技術。それを手に入れたら、トヨタに難癖をつけて中国から締め出すハラではないかと、推測される。
トヨタの生殺与奪権を握った中国政府が、トヨタをコントロール中である。張富士夫は中国にからめとられたといっていいかもしれない。
日本経団連の現会長(第12代)の米倉弘昌と日中経済協会の張会長は9月27日、北京の釣魚台迎賓館で日中友好7団体の会長とともに中国要人と会談する予定だった。張は社用機で中国入りするはずだったが、中国航空当局の離陸許可が大幅に遅れ出発を断念した。天津上空で中国空軍が演習中というのが離陸許可を下ろさなかった理由だが、トヨタに対する中国側の揺さぶりとの見方もできよう。
ユニクロ「反日の逆風でも中国出店はやめられない!?」
source : 2012.10.12 Business Journal (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■イトーヨーカ堂 伊藤雅俊
■伊藤忠商事、越後正一社長(第2代社長)と瀬島龍三
■ユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井正会長兼社長と沢田貴司・元副社長
商社をはじめとした多くの流通関連企業も、中国と無関係な経営をしているところはない。現地に店舗を持ち、またやすい労働力を使った現地工場から安価な製品を輸入してきたのだ。第5回はそんな商社、流通企業を紹介する。
■イトーヨーカ堂 伊藤雅俊
イトーヨーカ堂(現・セブン&アイ・ホールディングス)の中国進出は、伊藤忠商事の提案によって、1974年7月18日にはじまった。「伊藤忠商事が前面に立つことで、前向きに検討する」という鈴木敏文社長の方針が、伊藤忠商事に伝えられた。中国との合弁事業という、イトーヨーカ堂にとってまったく新しい試みであったため、経営政策室・経営開発部が担当することになった。
そこで、三菱総研、野村総研、三井銀行(現・三井住友銀行)国際部、三井建設(現・三井住友建設)国際部、さらに中国に精通する弁護士にヒヤリングを行なった。
74年10月、鈴木社長と森田兵三・佐藤信武両副社長らは、「百聞は一見にしかず」とて中国に向かい、一足先に上海で視察を終えた伊藤雅俊相談役と北京で合流した。伊藤忠商事からは、繊維本部長の岩本副社長を団長とする一行、さらに本案件を中国側の国内貿易部の張晧若大臣から預かった伊藤忠の藤野文晤常務も同行した。年内に確かな回答をするとしたのは、伊藤忠の室伏稔社長(伊藤忠の第5代社長)と藤野常務の強い希望があったからだ。
「超長期的視点から見て、社員の国際的視野の育成になる」「隣国からの招致であり、チェーンストアの全国展開権および輸出入権が付与される可能性があり、イトーヨーカ堂がもつ経営技術が流通近代化を通して中国に貢献できる」「中国をグローバルな生産拠点として活用すれば、日本国内の営業支援になる」「中央の案件(北京)を検討中に四川省成都の案件が届いたが、出資比率も高く、さまざまな実験が可能(だから成都でもやる)」との4点でイトーヨーカ堂の経営政策委員会は進出を決定した。
イトーヨーカ堂、セブン-イレブンは北京と成都に進出している。成都は鄧小平の故郷である。イトーヨーカ堂も鄧小平副首相の顔を立てて中国進出を決めたことになる。
■伊藤忠商事、越後正一社長(第2代社長)と瀬島龍三
72年、業界他社に先駆けて中国との取引再開を果たした伊藤忠商事で、社長(当時、故人)の越後正一を支えたのが参謀役の専務(故人)、瀬島龍三だった。元大本営参謀の瀬島はどのように動いたのか? 瀬島の部下だった元常務の藤野文晤(イトーヨーカ堂の項でも登場)はこう証言する。(12年9月7日付『日経産業新聞』のリーダー考より)
『72年9月、日中国交正常化が実現した。伊藤忠の中国市場への復帰は政府の動きより半年以上も早かった。越後の命を受けた瀬島は極秘裏に、1年以上前から準備を進めた。
71年の正月、越後社長が瀬島さんにこう伝えたのが始まりだったようだ。「なんとしても三菱、三井より先に中国貿易に復帰したい。しかも極秘裏にだ。その作戦をあんたに任せたい」と。大阪の繊維商社だった伊藤忠を大きくし、三菱商事や三井物産といった財閥系の商社を追い抜くためには、成長著しい中国での事業成功を除いては考えられない。越後社長はそう思った。この作戦が外務省や他の商社に漏れれば支障が出る。失敗は許されない案件だ。越後社長は全幅の信頼をおいていた瀬島さんに実行を指示した』
『71年1月、藤野は瀬島に呼び出され、中国ビジネス復帰プロジェクトの話を切り出された。「私は社長の意を介して動く。君が僕の手先になって進めてほしい」と。誰にも言えない秘密の作戦だった。目標は72年春。2人で1年間の詳細な日程を組んだ。いつまでに何をすべきなのか。台湾や韓国との商材をどうするのか。どういう形で中国に復帰するのか。そのための作戦だ。』
『瀬島は情報収集のため藤野を香港に潜入させた。機密保持のため藤野は家族にさえ渡航目的を告げなかった。藤野は華僑ビジネスマンとの人脈、香港の新聞の情報などから、中国関連で確度の高い情報を集め、毎日、瀬島に報告した。瀬島はもちろん社長と毎日話しあっていた。瀬島自身は日本政府はもちろんのこと、台湾や韓国政府への根回しを進めた。中国貿易を復帰するには台湾企業などとの取引を取りやめる「周四条件」を受けいれなければならない。伊藤忠はダミー会社を作り、双方との取引を継続しようとしたが、そのために工作が必要だった。瀬島は韓国や日本の政権中枢にものすごい人脈を持っていた(瀬島の韓国人脈はつと有名だ)。』
71年12月、伊藤忠は中国への復帰の意思を正式に発表。72年早々中国から思わぬ知らせが届く。越後の訪中を条件に、ダミー会社でなく伊藤忠本体での中国貿易を認めるとの内容だった。同年3月。中国は伊藤忠を友好商社に認定して取引開始を正式に通達した。この時から伊藤忠は親中国の総合商社になったわけだ。
財閥系商社に先駆けて中国事業再開を果たした伊藤忠は「中国事業に最も強い商社」という地位を築く。
■ユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井正会長兼社長と沢田貴司・元副社長
沢田貴司は1997年5月に伊藤忠商事からファーストリテイリングに転じ、中国の生産拠点整備などを陣頭指揮し、ユニクロ・モデルと呼ばれる製造小売り(SPA)の仕組み作りに大きな役割を果たした。ユニクロに入社した1年後には既に、柳井社長はその手腕を見込み、「次期社長に」と本人に伝えている。しかし、結局、02年5月末に副社長を退任して独立した。
ユニクロ・モデルと呼ばれるSPAの仕組みを作り上げたのは沢田。CFOとして財務を仕切っていた森田政敏常務(1998年入社)も伊藤忠からの転身組だ。ここでも伊藤忠の存在がクローズアップされるわけだ。ユニクロ・モデルは三菱商事とニチメン(当時、現・双日)の総合商社2社にリスクを取らせるかたちで(ということは、ユニクロはリスクを取らない)生産拠点を中国に着々と整備した。
12年9月26日の記者会見で、柳井CEOは「(中国市場の重要性は)以前とまったく変わらない。日中は良きパートナーであるべきだ」と力説した。今後も毎年、100店舗を中国に出店すると言っているが、現実にそれが可能なのかは別次元にある政治の話となる。
9月29日、上海市にユニクロは新店舗をオープンした。新店舗は浦東地区と呼ばれる新興の住宅・オフィス街にある大型商業施設に入居した。ユニクロは、02年9月に上海に1号店を出して以来、既に中国に145店舗(8月末時点)を展開し、上海内にも30店舗以上がある。1000店を出す目標を変えていない。
ユニクロの柳井オーナーが元気のある親中派経済人の筆頭に躍り出た。
イオン「店舗を襲撃されてもニコニコ」中国経済に貢献した企業の今
source : 2012.10.13 Business Journal (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■資生堂の福原義春・元社長&会長
■ワコールの塚本幸一・元社長&会長
■平和堂の夏原平次郎(創業者)
■ヤオハンの和田一夫オーナー
■イオンの岡田卓也・名誉会長
シリーズ第6回は、親中派経済人としては、あまり知られていない人々を取り上げる。
■資生堂の福原義春・元社長&会長
そもそも資生堂の社名は、中国古典『易経』の一節「万物資生」に由来する。2011年5月に中国進出30周年を迎えた。中国における売り上げ高は、同社連結売上の10%強を占め、販売店舗数は5000店を超える。中国事業の開拓者である福原義春名誉会長(元社長&会長)は、文化大革命の余波が冷めやらぬ80 年に北京に降り立ち、翌年から事業に着手した。
02年には日本の民間人として、初の北京市栄誉市民の称号を授与されている。同賞は北京市に貢献した外国人に与えられる最高位の称号である。
福原は「中国には古典から社名をいただいたこともあり、昔から格別な思いを持っていた。最初に中国を訪れた80年、私は外国部長だった。資生堂綜合美容研究所の社員が『北京市第一軽工業局が、資生堂に関心を示している』と教えてくれた。中国への投資はすぐには難しいので、まずは視察という口実を設けて、アジア課長を連れて2人で北京へと向かった。
中国は重工業に注力していたため、軽工業局への予算配分は極めて少なかった。軽工業局は会議室もなく、四川飯店の客室を間借りするような形で会議を開催した。ホテルの確保もできないということで、宿泊先として用意されたのがユースホステルだった。部屋には鍵もなく、従業員はノックもせずに魔法瓶の交換や掃除などで入ってくるので、落ち着いて着替えもできない。これが私たちの中国進出の始まりだった」と、福原は述懐している。
当時の北京は人民服を着た人が闊歩しているような時代で、デパートの化粧品売り場ですらビニール袋詰めのクリームを量り売りしているような状態だった。「日本は1000 年以上前から中国の文化を取り入れて発展してきた。今こそ恩返しをしたい」という気持ちが芽生え、手探りながら、中国の化粧品市場の改革に着手した。
北京市第一軽工業局と交渉を重ねていくうちに、北京の試験工場が空いているので使ってみてはどうかという話を持ちかけられた。その当時、中国人の生活に必要だと思われるシャンプー、リンス、クリームなどを試験的に生産することにした。中国側と資生堂には「中国の人々の生活を豊かで美しいものにしたい」という共通認識があり、それを実現するべく83 年には日系企業初の日用品工場との第1次技術提携を締結した。技術提携は合計で4回締結し、91年まで続いた。
現地ブランド「●姿(ファーツ)」(※●は化の下に十という字)は中国側が名づけてくれた名前。「●」は中華人民共和国の「華」、「姿」は資生堂の「資」と同じ発音で、花の姿を意味する。同商品のレーベルには「資生堂との技術供与品」と記されていたことから、同社の中国での認知度向上にもつながった。90 年にはアジア競技大会北京大会の指定化粧品にもなり、資生堂ブランドは着実に中国全土へ普及していった。
ワコール製のブラジャーの値段が、中国の男子工員の1カ月分の給料に相当する時代だった。
■ワコールの塚本幸一・元社長&会長
中国にまだ伝統的な下着しかなかった86 年、ワコールは日本のアパレルメーカーのトップを切って中国に進出した。ワコールは46 年の創業以来、「女性たちに美しくなってもらうことで広く社会に寄与する」ことを目標としてきたが、それを中国で実践しようと、日中4 社合弁の「北京ワコール服装有限公司」を設立した。北京ワコール服装は00 年にワコールの100%出資会社となり、03 年には「ワコール(中国)時装有限公司」と社名を変更し現在に至っている。
中国は下着の分野でも世界最大の生産・供給能力を有している。現在、中国には数千社の下着メーカーがあるが、高級品市場に限って見ても、中国系、ヨーロッパ系、香港系、韓国系など数10のブランドが競合する激戦区である。加えて、欧米諸国が中国製の安物の下着を輸入制限したため、中国国内の輸出メーカーの内需転換と高級化が始まった。欧米系ブランドの新規参入などにより、シェア争いはますます激しさを加えている。
■平和堂の夏原平次郎(創業者)
滋賀県と中国湖南省が友好協定を結んでいる縁故から、平和堂は中国湖南省にも進出した。省長からの「省の発展のため、大型商業施設を出店してほしい」との招請に応えたもので、98年に省都長沙市に合弁会社湖南平和堂実業有限公司を設立し、長沙市の中心繁華街・天心区五一広場に湖南平和堂本店(五一広場店)を開業した。平和堂最大級となる高級百貨店で、湖南省初の外資系商業施設でもあった。従来の中国国営百貨店にはない日本式の先進的なサービスが支持され、現在では同地区ナンバー1百貨店の地位を確立していた。加えて2007年10月1日には同市にて、中国2店舗目となる湖南平和堂東塘(トンタン)店を開業した。2009年9月26日には株洲市に中国3店舗目の湖南平和堂株洲(シュシュウ)店を開業した。
それにもかかわらず今回、平和堂は襲われた。
平和堂は、湖南省の百貨店3店(直営部分)の設備や商品などが壊された被害は5億円、休業による営業機会損失として見込まれる13億円と合わせて被害総額18億円になる見通しを明らかにした。平和堂に入居するテナントの被害は30億円前後に上る見通しという。
夏原平和・現社長は9月27日の決算発表の記者会見で、湖南省の首脳と会談し、円滑な事業環境の構築を要請したことも明らかにした。「略奪などの容疑者の指名手配もされている」と中国側の姿勢を評価し、来夏、開業予定の4号店は「予定通り進める」とした。被害が比較的少ない2店舗は11月中旬までに再開する予定。放火や破壊、略奪など大きな被害を受けた1店も12月の再開を目指すとしているが、「中国側の姿勢を評価する」というのはいただけない。こういう姿勢だから中国になめられるのだ。
■ヤオハンの和田一夫オーナー
日本大学経済学部卒業後の51年、両親の営む八百屋・八百半商店に入社。68年、八百半デパートに改称し社長就任。71年、日本の流通業の海外進出第1号としてブラジル進出。89年、ヤオハンデパート会長。同年、持ち株会社ヤオハン・インターナショナルを設立、代表取締役会長となる。さらに香港にグループ総本部を作り、90年、家族とともに同地に移住した。1996年、総本部の上海移転とともに上海に移る。97年、上海市栄誉市民賞を受賞したが経営危機に陥り、日本に帰国した。同9月にヤオハン・ジャパン(旧ヤオハンデパート)が経営破綻、和田はヤオハン関連の全ての役職から辞任、ヤオハン・グループは崩壊した。和田は04年、上海に移住、現在は中国企業や中国関連プロジェクトの顧問などを複数務めている。
和田は中国に対し「中国への思い入れというか、ご恩返しということがあります。中国は日本との戦争で、あれだけ大変な目に遭ったのに日本を分割統治することに反対し、いっさいの対日賠償を要求しなかった。一番被害を被った国が賠償を放棄してくれたおかげで、戦後の日本は繁栄できました。だからこのご恩はくれぐれも忘れてはいけません。ですから、私は、その恩ある国が困っているのを見て、私にできることはないだろうか、中国のご恩に報いる道はないだろうかと考えて、香港への移住を決意したのです」と述べている。
本シリーズの冒頭で述べたが「戦時中の罪滅ぼし」と考えた経済人はあまたいたが、和田一夫はその筆頭に位置する。
■イオンの岡田卓也・名誉会長
イオンの岡田卓也・名誉会長相談役は09年5月15日、北京市名誉市民賞を受賞した。北京市との長年にわたる植樹活動や社会貢献活動が評価されたものだ。名誉市民賞は北京市に貢献した外国人に与えられる最高の賞で、日本人の受賞は鈴木俊一・元東京都知事、福原義春・資生堂名誉会長に続いて3人目であった(その後も受賞者は出ている)。
北京市人民政府で郭金龍・北京市長から賞を授与された岡田氏は「名誉市民に認められ光栄です。今後も日中交流、環境対策に貢献したい」と述べた。また、岡田氏が理事長を務めるイオン環境財団は翌5月16日、万里の長城周辺の森林を再生させるため98年以来続けている植樹を行い、岡田氏もこの時、参加した。
今回の反日騒乱でジャスコ青島店は襲撃され、被害総額は25億円に達したと発表したが、その後の調査の結果、7億円と判明した。「物的な被害については保険でカバーされる」として11月下旬に再開するとした。
北京市名誉市民賞も植樹などの社会貢献も、中国害民(国民ではなく害民だと言った日本の経済界の首脳がいたが、言い得ている)はまったく評価していなかったわけだ。
それでもイオンは9月26日、傘下のイオンモールが天津、蘇州、広州に大型ショッピングセンターを出店すると発表した。岡田は中国害民の裏切りに懲りていないように映る。
ANA「アカ財界人と批判を浴びても日中のパイプ作りに奔走」
source : 2012.10.14 Business Journal (ボタンクリックで引用記事が開閉)
■コマツ、河合良成(コマツ中興の祖)
■全日本空輸の岡崎嘉平太・元社長
■JUKIの山岡建夫・元会長
■YKKの吉田忠裕・元社長
■東京貿易の松宮康夫・元社長&会長
親中派だったり、中国寄りの政策提言を行ってきた日本の企業と人物を取り上げ、紹介していく本シリーズ。最終回となる本記事では、中国と日本の国交正常化以前から周囲の反対を押し切り日中貿易の振興に努め、結果的に日中間の国交正常化に尽力した、親中派経済人を列挙して紹介する。
■コマツ、河合良成(コマツ中興の祖)
1972年の日中国交正常化以前から、日中貿易の振興に努め、中国政府から信頼を得る。その歴史は56年、北京と上海で開催された日本商品見本市へ参加したことから始まる(これがコマツの中国における事業開始である)。64年、河合良成会長(当時)が訪中して周恩来首相と会っている。この当時、日本の経済界・政界は“竹のカーテン”がある中国とのビジネスなどまかりならぬという雰囲気だったが、河合は非常に型破りな人間で、周囲の反対を押し切って訪中した。この時にも周恩来首相は「井戸を掘ってくれた人の恩は忘れない」と言った。田中角栄首相にも同じことを言っているが、河合良成の方が先に言われているわけだ(コマツの社史にもそう書いてあるそうだ)。この時、ブルドーザーなど計1510台成約した。商売はきちんとしたわけだ。
■全日本空輸の岡崎嘉平太・元社長
中国は早くから航空路問題に着目していた。それはまだ国交が正常化されていない64年2月のことだった。当時、廖承志は岡崎嘉平太らLT貿易関係者(LT貿易については本シリーズ1回目で解説)に、日中航空機の相互乗り入れを提案した。その後、この問題はしばしば日中民間経済外交関係者の間で協議され、全日空社長として岡崎嘉平太らは日中航路の開設を熱心に提唱し、政府首脳と協議した。しかし、日本政府は、中国との間には外交関係がないことを理由にそれを拒否し、臨時便さえも認めようとしなかった。
日中間に初めて飛行機が飛んだのは、72年8月16日、訪日中の上海歌劇団一行を東京から上海まで運ぶためだった。これは日本航空と全日空が、田中角栄首相訪中に備えて行った上海へのテスト飛行であった。同年9月9日、全日空のボーイング727―200型機が、KDDの衛星地球局などテレビ中継機材や日中国交正常化政治交渉の民間担当者、吉井喜実、田川誠一、松本俊一らを乗せて北京に向けて飛んだ。これが東京―北京間の初めてのフライトだった。そして9月25日~30日、田中首相が訪中した際には、総理特別機をはじめ日本航空と全日空が本格的な飛行を行った。
72年9月、日中共同声明が出された時の首脳会談で、田中角栄首相と周恩来総理は、両国の国交が正常化すると人の往来が多くなることから、「航空協定を早期締結できるよう努力する」と約束したと言われている。
「空は政治なり」と言われたように、日中航空協定締結の交渉は単なる政府間の経済的な実務協定の交渉ではなく、政治的な実務協定の交渉でもあった。航空協定は他の協定と違って、直接に国家主権にかかわる事項(国旗や国家を代表する航空会社の問題など)が多いためである。即ち、航空協定を結ぶということは、日本政府が「中華人民共和国政府が、中国の唯一の合法政府であることを承認した」ことを意味するからである。
72年に日中で国交が正常化する時、周恩来が「わが国では水を飲む時には井戸を掘った人を忘れない」と謝意を伝えた民間人が岡崎嘉平太。隣国中国との国交断絶状態を憂い、貿易という場を利用した交流を発案し、国交樹立へとつなげた“陰の立役者”である。
戦後の日本は台湾政府と国交を持ち、共産主義国の中国に対してアレルギーがあった。その中で岡崎は、アカ、反体制財界人という批判を浴びながらも「相手を知ること」「相手の立場に立つこと」を信条に日中のパイプ作りに奔走した。特に周恩来とは、18回におよぶ会談を通じてアジアの安定と共存を語り合い、信頼と友情を深めていく。
国交正常化の後は日中青年研修協会を設立、留学や研修を通した“人の石垣”を築くことに情熱を傾けた。訪中100回、「信は縦糸、愛は横糸」と唱え続けた岡崎は、現在も中国で最も尊敬されている日本人の一人である。しかし、この「信」「愛」は今回の反日騒乱でその言葉の実体を失ってしまった。
■JUKIの山岡建夫・元会長
90年6月に上海重機ミシン有限公司を設立し、中国に拠点を持ったJUKI社は、世界シェア・ナンバーワンの工業用ミシンメーカーである。「世界の工場」としての中国にいち早く進出し、中国の経済・ファッション業界に精通している。JUKIの山岡元会長は、中国の生産性を高く評価していた。
JUKIはミシンの70%を中国で作っている。量産品は中国で作り、高級品は日本で作っている。中国で生産したものも海外に輸出している。
(製造拠点は)北京と上海にある。寧波には中国で部品を調達し、ユニットに組んでいる工場がある。
中国の売り上げは、工業ミシンは全体の35%、チップマウンタ(回路基盤に電子部品を搭載させる機械)という産業装置が40%、全体だと、全社の27%となっている。
■YKKの吉田忠裕・元社長
中国には92年に進出した。中国の呉儀・副総理は05年4月6日、YKKの吉田元社長一行と会見した。呉副総理は「中日両国の政府と経済・貿易界の共同の努力で、近年、両国間の貿易、投資協力が引き続き急速かつ安定的に発展している。YKKは世界最大のファスナー生産販売企業として、中国市場を非常に重視し、ファスナーや建材などの対中投資業務でよい業績をあげている」と指摘した。
また「YKKが中国の経済発展の好機をとらえ、引き続き投資を含むより幅広い対中経済・貿易協力を進め、拡大するよう希望する」と述べた。
■東京貿易の松宮康夫・元社長&会長
東京貿易は専門商社だが53年、中国と、戦後初の昆布のバーター取引を成立させる。その後、香港上海銀行を仲介として信用状の決済が順次拡大していく。このシステムは東京貿易の電報の略称にちなんでトーマス方式、逆トーマス方式と呼ばれるようになる。松宮はトーマス方式と呼ばれる日中貿易の先駆者となった。
54年に八幡製鐵(現新日本製鐵)の指定輸出業者となる。松宮の中国での足跡は新日鐵と軌を一にする。
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